こんにちは!
夫婦で一年間の世界一周旅行の後、福岡県糸島市で、
ゲストハウス「前原宿(まえばるしゅく)ことのは」を運営する、のぎー&かなです。
本日もブログ訪問ありがとうございます!
さて、「ボスニア・ヘルツェゴビナ」で2015年7月17日に、私たちが体験したお話です。
ボスニア・ヘルツェゴビナって知ってる!?
ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボにいます。
旧ユーゴスラビアの1地域ですが、社会主義体制崩壊後の1992年から95年にかけて、泥沼の内戦に突入します。
もともとこの地域はボシュニャク人(イスラム教の南スラブ系民族)とセルビア人、クロアチア人が共存していたのですが、旧ユーゴスラビアはセルビア人主体だったため、多民族のボスニア・ヘルツェゴビナでは独立するかユーゴスラビアに残るかで内戦に陥ったのです。
スロベニアやクロアチアなど、他の地域は民族ごとに、ある程度まとまりがあったので、独立戦争はあっても、内戦のような事態には至らなかったようですが。
また民族が違うといっても、人種・文化的には混合が進んでいたため、宗教的な違いぐらいしか実際はないようです。
そう考えると政治的な主権争いで内戦が起きたようなものですから、住民はたまったものではありません。
実は、現在、ボスニア・ヘルツェゴビナは「連邦」国家で、ボシュニャク人・クロアチア人主体のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦と、セルビア人主体のスルプスカ共和国にエリアが分かれています。
かつては共存していただけに、残念な状況ですね。
内戦の爪痕と未来
街を歩いていると、あちらこちらに内戦の爪跡が見受けられます。
今年で内戦終結20年ですから、20歳以上の人はみんな戦争を知っている世代になります。
街中では未だに様々な内戦の爪痕を感じることができます。
銃弾の痕が残るビルの壁面、慰霊塔などなど。
↑完全に機関銃の狙った方向が分かるような痕です。今は静かな住宅街の一角なのですが。。。
↑公園の中にある慰霊塔。公園の中にはお墓のようなモニュメントがいっぱいあって、緊張感があります。
サラエボ北部のオリンピック補助グラウンドは、今となっては「墓地」です。
なんでも、内戦中は危険すぎて、犠牲者を本当の墓地まで運べなかったからとか。
日本も今、「新国立競技場」と「安全保障」の問題で大騒ぎですが、リアルに新国立競技場が墓場にならないことを祈ります。
墓地はそれ以外にも街の北方に広がっています。
↑後日、丘の上に登って眺めた景色。お墓が街を見下ろすように並んでいます。
あとサラエボは「第一次世界大戦」のきっかけになった、オーストリア=ハンガリー帝国皇太子夫妻の暗殺現場にもなってますし、バルカン半島では、第二次世界大戦でもドイツ軍の侵攻がありました。
場所的には、西洋と東洋の中間な上に、寒いロシアも南下したいというものすごく重要な地域でもあります。
↑世界大戦を繰り返さないための「永遠の火」です。消えることがありません。
内戦の頃は、私は小学生か中学生だったので、歴史の授業で内戦の話を聞いた記憶があります。当時はまさか20年後に旅行にくるなんて想像もしていませんでした。
統計によると、失業率は40%を超えていて(若い世代ではもっと深刻なようです)、はっきりいって、「日本が不況」なんて言ったら笑われるレベルです。
しかし、不思議なことに、サラエボの街はとても活気があるし、子供達も夜まで親と出歩いていて、治安もそこまで悪くないように感じます。人々は笑顔で、とても平和的です!
モスクのすぐ裏にはカトリックの教会があったりして、日本の神社とお寺が共存しているのに似たような雰囲気も残っています。
内戦後の民族間のわだかまりは当然残っていると思いますが、未だに様々な場所で、内戦の悲惨さに関する展示があって、誰もが「戦争は懲り懲り」と思っているように感じます。
どんな状況でも「戦争よりはマシ、平和なだけでも素晴らしい!」と心底思っているのかもしれません。
日本も第二次世界大戦後は誰もが戦争は懲り懲りと思ったわけですから、絶対に忘れてはいけない精神だと思います。
かつて様々な民族や宗教、文化がうまく融合していたと言いますから、またそんな時代の再来を期待したくなります。人々の表情を見る限り、それも夢物語ではないような気がします。
私たちの一年間の世界一周の軌跡が、皆さんのお役に立てれば幸いです。
**今度は私たちがゲストをもてなします!**
福岡・糸島ゲストハウス
前原宿(まえばるしゅく)ことのは
(Itoshima Guesthouse Kotonoha)